私という小説家の作り方

osamuoh2008-01-13

1998年頃の大江氏のエッセイ集、論文であった。



やはり大江氏は、”新しき人よ目覚めよ”あたりから、意識的に、作者とおぼしき人物を作中ににすえ、息子さんとの共生の生活を、作品の中核にすえるという事を行ったとの事であった。



その”私”は、あくまで、”虚構の仕掛けとなる私”と言う事であって、厳密な意味での”私小説”から、なんとか自由になろうという、手法上の問題であったとの事であった。


しかし、ほとんど、作者と変わらぬ”私”と書いていきながら、どうやってフィクションを取り入れる事ができるのかと、どう考えても理解する事が出来ず、不思議に思った。


大江氏は、若い頃から、バフチンの”異化”理論と、バシュラールのイマジネーション理論の提唱者であったとの事であるが、やはり、作者の生活と、想像力とが、どのように並存するのか、そんな微妙な点が、非常に気になってしょうがなかった。


そんな、大江氏も、ノーベル賞以後、”僕”というナラティブに疑問を感じはじめておられたらしく、そこで、あの、古義人シリーズの作品が生まれたらしい。


僕個人としては、大江氏の、いつまでも若いままの、僕というナラティブが好きだ。


今の若い批評家では、村上春樹氏のような、フィクションとしてはっきりしている、僕というナラティブが潔いと批評する人などもいて、あえて、作者と等身大の”私”を書くような描き方は、あまりスッキリしないのかも知れない。