アンチ・オイディプスのかなたへ

osamuoh2006-08-03

 河出書房版の”アンチ・オイディプス”を訳した方の著作であった。

 メチャクチャな理解の仕方としては、”資本主義の欲望の諸機械が流動する世界”で、”欲望する諸機械”(人間)、”戦闘マシーン”が戦うという事になると思われるが、あまりに、いい加減な理解の仕方で申し訳ありません。

 ポプュラリズムの世界では、要するに、あのシュワネルツェッガーの”ターミネーター”が戦うのを観て、スカッとするのも当然許されると思われるが、少し、問題と思うのは、ドゥルーズガタリの述べてている理論は、ほとんどが人間の精神の無意識の領域内の事であると言う事だ。”スキゾ”、”ノマド”と云えば、何か最先端の事のようで、カッコ良いようにも聞こえるが、”分裂病”と云えば、もうほとんど死に近い病気である。ドゥルーズガタリはそれらをも、ほとんどかなり強引に、機械化、マシーン化して、システム化しているように感じられる。

 シュワネルツェッガーの”ターミネーター”は、精神病にはならない。そのかわり、物理的に”破壊”と”再生”を繰り返す。しかし人間は、なかなか、機械のように、簡単に取替えが効かないところが、何故か、危うく感じられる。

 現実に、ソフトバンク王監督が、手術を受けた様子などを、見せられると、とても痛々しくて、機械、マシーン、などととても言えない。フラミンゴ打法の華麗なる戦う戦士だったのに・・・・・・・、