坂上秋成という、まだ現役の学生である方の論文であった。”Plateau"という同人誌に掲載されていた。

osamuoh2009-02-13



柄谷行人氏の著作”近代日本文学の終わり”に呼応するような形で書かれた、かなり学術的な論文であった。


現代では、もう近代文学を視野にいれた批評を書かれる批評家は、もう柄谷氏しか居ないであろうと思っていた矢先に、氏自身から”近代文学の終わり”を宣言されて、非常なショックを受けていたのですが、氏の述べている、近代文学の妙に神格化、信仰化されている点として、


帝国大学出身者を頂点とする、激しい学歴エリート主義”の歴史や、近代文学は終わっても、”資本主義と国家の運動”は終わらないという点などがあげられていた。。



坂上氏は、マルチック生まれの思想家である”エドゥアール・グリッサン”という人の思想に触発されて、”クレオール化”とういう概念を持ち出しておられた。


クレオールとは、短い言葉で表すと、”植民地で生まれた子供をクレオール”と呼ぶ事から、”言語、文化などの人間社会的な要素の混交現象”を意味する言葉であるらしい。



一番良くイメージされる現象として、大学の文学部において熱心にドイツ文学を学ぶ学生に狭義の意味でのライトノベルの重要性を説いても大概の場合はかわされるか鼻で笑われてしまうのがオチであるなどといった場面を例に挙げておられた。



それでは、坂上氏のいうクレオール化する日本文学のあり方とは何か?



総合でも支配でもなく、なんらかの形で統一しようと願望する、硬直化した思考ではなく、”雑多な多様性を歓迎し、クレオール化したリゾーム的なゆらぎの中で、そこに予測のできない合力が生み出されるような状態を提唱しておられた。



自分達の父祖伝来的な文化を信望するがゆえに、他の文化を破壊するという事態に陥ることなく、”混合”と言う概念を掲げ、他の文化を他者として扱い、そこに関係を築こうとする姿勢が大事ではないかと
論説されておられる。



僕風に解釈すれば、硬直した自己の思考に閉じこもっていないで、もっと、雑多な文化の多様性受け入れよ!といった感じに受け止められた。何でも統一、支配しないではいられないような欲望を持つ、僕の凝り固まった頭には、かなり衝撃的な分析であった。


しかし、”混合”という言葉は始めて聞いたような言葉であり、驚いた。



グリッサンという詩人でもある方はこのように述べておられるという。

”混合の思想は、単に文化的混合ではなく、一歩進めて、混合の諸文化の震える価値の思想、それは恐らく我々を諸処の限界、あるいは、我々を虎視眈々とねらっている不寛容から救ってくれ、我々に新たな関係の空間を開いてくれるだろう”。