女性作家、笙野頼子女史の檄文であった。

osamuoh2008-11-23



柄谷行人氏の”近代文学の終わり”という声明に対して、なんとか反論するような論文は無いものかと、色々探してみたら、笙野女史の著作を読んでしまった。他に、反論らしきものが見当たらなかったのです。



読んで見て、そのあまりの激しさに、吃驚仰天してしまったのだが、笙野女史は、芸術家、アーティストであるからと、なんとか、自分を慰めた。


いわゆる、資本の論理によって、近代文学がもはや、存在意味を持たなくなったという趣旨の、柄谷氏の講演であったが、一応それに対する、反論として、


”その場しのぎの刺激、つまり電車の中で立っているのがつらいから、何か別のことをしようと、スポーツ新聞のエッチな記事を読んでもいいから、あるいはゲームをしてもいいから、携帯で喋ってもいいから、何か時間をまぎらわしたい、つらいことをやり過ごしたい、そういう人達が娯楽を求めるというのは必然的なことです。だけどそういうものと比べて、”日本語とは何かを考える、あるいは新しいものの見方を考える、それを学問の専門的な領域じゃなく、全人的に一人の体の中でやる、そういう文学の効用というもを、この人は全く判っていません。だからお金の話をしているのです。””


というような反論になっていた。科学的な、学術的”資本”の論理の必然性、合理性にたいしては、国家神道では無い土俗的な神道、オカルトではない常識としての、中世的仏教の精神で徹底して抗戦すると述べておられた。女史はそれを”戦う金毘羅魂”と名づけておられた。


しかし、多くの男子、男の子は、どちらかというと、学術的西洋哲学の合理性とか、資本の論理の必然性というような、科学的メカニズムのほうに興味があるのではないかと思ってしまう。

毒には、毒を持って制するというか、学術的アカデミズムの論旨には、学術的アカデミズムの論旨でもって反論しないと、どうもスッキリしない怨念のようなものが残ってしまう。

ショックであった。!