柄谷行人氏の評論。

osamuoh2008-10-16



文学の終わりと聞いて、かなりショックを受けるが、あらためて科学的に考えて見ることにした。



”科学的共産主義”の思想では、小説などという退廃的なものは、そもそも必要は無く、すべての小説が”ルポルタージュ”になるべきであって、小説を読むより、新聞を読むことのほうが”優先”されるべきだと、よく言われていた事は有名だ。


僕がショックを受けたのは、自由主義の思想の世界で、文学の終わりが言われている事だった。



柄谷氏の論説を整理すると、1950年代アメリカにおいていち早く出現した、大量生産、大量消費社会などを例に出すまでも無く、”問題を世界資本主義の展開”において考えるべきだという事であるらしい。そこで起こっている事は、形式的な言語的戯れに浸ることであり、近代小説にかわって、マンガやアニメ、コンピュータ・ゲーム、デザイン、あるいはそれと連動するような文学や美術が支配的となり、それらを美的に洗練することであると説明しておられる。これらを動かしている”資本主義と国家の運動”は、たとえ近代文学は終わろうと、無くなろうと、終わらない。と述べておられる。



また、近代文学をささえてきた体制に、学歴主義というか、東京大学を頂点としてどの大学に入るかによって”身分”がきまるというような体制がずっとあった。どんなに否定してもあった。と述べておられる。


もう一つ、恋愛至上主義についても、自分の商品価値を考えて、もっと高く売ろう計算する女性は、今日ではありふれているし、男女ともに処女性など気にもかけていない。これは資本主義がより深く浸透してきたということを意味するだけです、とも述べておられる。


このようにして、自由主義の枠組みのなかからも、近代文学の終わりという事が言われてきているらしい。