1000の小説とバックベアード

osamuoh2007-10-02

佐藤友哉という若手の方の作品。



推理小説を書いておられたようだが、出版社の方からは、あまり良く売れないと、ハッパをかけられていたとの事。



問題の、1000の小説で、何度も、”近代文学”という言葉が使用されており、所謂、夏目漱石や、谷崎潤一郎志賀直哉などの、日本の正統な文学者の名前を、熱き気持ちを込めて”リスペクト”されているのだが、読者である読んでいる自分の気持ちに、傷のようなものが残ってしまう。


そんな事言ったって、今の日本で、”近代文学”をまともに扱っている所がどこかにあるだろうか? という非常な不安感が起きてしまうのです。


かなり、まともな教育機関の大学でも、もういまや、”近代文学”などという授業や、研究は行われていないのではないかという、恐怖に似た、絶望感があるのです。


やはり、学問は、社会に出て、実用のある研究が急務であるから、近代文学などと言っていると、誰からも相手にされないのではと思ってしまう。


あの、大江健三郎氏でさえ、ノーベル賞には、非常に喜んでおられたが、日本の近代文学的な、文化勲章は、完全に辞退しておられる。この事は、かなり、ショックであった。もう近代文学などと言う時代は、完全に終わっているのかと、ショックであった。


そんな、僕の恐怖などとは、関係なく、ちゃんと三島賞を受賞したのは、やはり、作者は凄い。



エンターティメントの世界で仕事をしていた方だから、かなり、派手な文体を予想していたのだが、村上龍氏ほどの、ナイフでキラキラと人を刺すような、絢爛さはなかったように思う。意外だった。もっと派手な文体にしても良かったのにと、勝手な事をほざく僕であった。