情報環境論集

osamuoh2007-08-29

東浩紀氏の評論集であった。


何故、東氏は、アニメなどをみているのか、以前は、そのような素朴な疑問が気になってしょうがなかった。
理由などより、そいった事で、ハイになって、ブッ飛べればよいのだという、すごく乱暴な正論などもあり、色々考えていた。なにより、東氏が、アニメなどを愛しているのだから、それでいいではないかと、自分を慰めてみたりもした。


理屈など嫌いな方も多いと思うが、本書では、一応、それらしき説明がなされていた。


本書によると、一応、映画というものは、目に見える世界をカメラに写し取られてあるが、アニメは、目に見えない世界を描きだしており、その、人間の眼にみえないものを描いたものを観たい、という人間の欲望の為であるらしい。


こういった事は、デリダエクリチュール論とかなり一致しているらしく、”人間は、動物や幼児と異なり、現前的な世界を超え、知覚不可能なものを扱う能力を与えられており、人間だけが、シンボルの世界、つまり象徴界をもつとされている
、つまり、ラカン的に言えば、「シニフィアン」の構造を分析する学として再生させようと試み、フロイトが生理学的枠組みで捉えていた「欲望」や「欲動」といった問題もまた、シニフィアンの、つまりシンボルの「見えないもの」の効果として分析されるべきなのである”  という事であった。


まさか、アニメによって、本来人間に見えないものを、見ようと考えておられるとは思わなかった。


実際、アニメは、よく見ていると、深刻な内容の物が多く、試しに、アニメを3日3晩見続けると、しまいには、ごく自然に精神がトリップするようになり、これには、自分でも驚いた。


マンガというものは、大人になると、一応イヤでも卒業するものだとう、世間一般の常識などが、僕の時代などには、主流であったが、こうなったら、ジジイになっても、”幽霊的な存在”になっても、半ば強制的に、徹底的に”没入”してやる、などと、興奮してしまった僕であった。