キリスト教と姦淫のくだり

osamuoh2006-07-16

 僕個人としては、イエス氏の教えは、どちらかと言うと、”愛と平和”のイメージとして読んだのだが、やはり厳密にはどうかと問われて反論する事ができなかった。


 新約のマタイ5章28節には確かにこのように記されていた。

 ”あなたがたも聞いているとおり、姦淫するなと命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなって、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。”


 要するに、”眼や手を切り取ってしまえ!”という事になるが、なるほど、こういう風に一部分を取り出して厳密に読ば、 かなり”過激”である。まさに殺す、殺さないの話であった。

 フリーセックス論者よりはキリスト者のほうが”過激”である事になる。

 現に、自由の国のアメリカでさえ、大統領ともなれば、避妊具や、中絶をいまでも認めないという方が多いそうだ。

 こなると、サドや、マゾッホバタイユなどを読んだ僕などは、大馬鹿者という事になりそうだ。

 古代の人の考えであるから、やはり、自然の摂理にかなっているのだろう。

 希臘文明の時代には、わざわざ、公衆の面前で、オナニーをしてみせた人物もいたといわれるが、やはり僕の認識ではかなり甘いようだ。大変だ。