超電動ナイトクラブ  村上龍 著、

            1991年 講談社 刊、

 

コンピューターなどを使って、どのような装置があり得るかと、期待して読んだが、登場したアイディアは、自動射精装置と、三次元マルチスクリーンをヘッドフォンを装着して、意識をハイにするような装置しか登場しなかった。本編では、バーでのシャンパンやお酒がどんなに美味しいかという事のほうが重視されていたようだ。


村上龍氏が何故”悪”を描くかについて、

”良識に悪徳を、正気に狂気を、日常生活に非日常を、温良に冷酷を、
善意に悪意を、人間性にその解体をつきつけることで、状況に対決し、こ れを否定、爆破して新しい主体への展望を開こうとする悪の文学としての 村上龍の文学的営み”

”主人公の僕がドラマの参加者でありつつ、同時に見ることに徹した透明  な、表現の媒体に化身しようとしていること”

”主人公の見た<悪>の世界の、文学的虚構への転化のための新しい積極的 な方法論の誕生”

”想像力によって築き上げた現象世界への爆破の遂行、すなわち<悪>とし ての想像力による現実世界への否定の敢行として、水平線上に姿を現す”

村上龍の主要な水脈は、いずれも対象こそ異なれ、日常世界では<悪>と される増悪や差別を根源的エネルギーとしての、状況を破壊し、現実を否 定し、秩序・システムを覆えすための果敢な想像的実験に外ならない。  村上龍の文学は、その先鋭な核において、日本文学伝統に希なる<悪>の  文学であり、<悪>による状況否定のための文学であると言えよう”

   小泉浩一郎、村上龍論ー<悪>による状況否定の文学ー、より、