戦闘美少女の精神分析  斉藤 環 著


何故、戦闘する女性にかくも魅せられるのか、長い間疑問だったのだが、本書では、一般常識の日常意識のレベルでは、男性の”性的欲望”と”暴力の欲望”を同時に具現化して、欲求を適えてくれるから、という事になるらしい。


著者はそうした一般的な常識だけでは満足せず、精神分析の専門家として、もう少し深く分析しておられた。


想像のイメージの世界では、人間の両性具有の欲望をいかに乗り越えるかという身振りが重要になっており、戦闘美少女は、こうした多形倒錯的なセクシャリティをすべて兼ね備えた稀有な存在であり、少児愛、同性愛、フェティシズムサディズムマゾヒズムその他さまざまな倒錯の方向の可能性を潜在させつつ、戦闘美少女はそれには無自覚なまま振舞うというメカニズムになっているらしい。


精神分析の世界では、”ファリック・マザー”所謂”ペニスを持った母親”という概念と、そのペニスを持った女性という事による、”女性が受け持つことになった心の傷”、それは”ヒステリー”という事でもあり、男性は、その”心に傷を持った女性のヒステリー”に、もはや”機能することのない男根の適わぬ欲望”として、儚くも魅了されているというメカニズムとも分析出来ると言う。


女性のヒステリーに魅了されるなんて、あり得ない事だが、僕らの奥深くの潜在的欲望では、そのヒステリーに魅了され尽くしており、その実在を疑うことなど、思いもよらないくらい魅了されつくしているらしい。


”傷ついた女性の心の傷がヒステリーと化す”過程は、愛の過程という事になるらしい。


僕らは戦闘する女性と性交渉を決して持てないという事実こそが、決して到達できない欲望の対象であるからこそ、戦闘する女性は特権的な地位が成立するとの事。


戦闘する女性が戦うという事は、その女性の心の傷がヒステリー化しているという事であり、その病状と化した女性のヒステリー、戦闘にこそ、僕らの空洞化した男根の欲望がオルガニスムを感ずるゆえに、魅せられていると謂う事。


何故そのような倒錯した自己の性に固執するか、それは過度の世界の情報化の世界において、生の戦略として、いかに適応し生き抜くかという事においての唯一の抵抗になるのが、性であるかららしい。