ピンチョンで大いに遊ぼう 1993年 トーキングヘッズ業書刊、

ピンチョン氏の作品を読んで、一番最初に感じることは、その作品の捉えどころのなさであろうと思われる。”なにかはっきりしない。ストーリーを追い、そのテーマらしきものを感じることができる。何が描いてあるのか理解できる。しかし、いつもどこかに不確かさがつきまとっている。”と謂った感じに、いつも何かイライラするようなジレンマを感じ、結局何が言いたかったのだろうと、狐に摘まれたような感じを受けてしまう。


ピンチョン氏は、”意図的にそれをたくらんでいる”と本書では述べられていた。”つまり、作品を解読するという、まるで出口のないような作業に誘う餌さが、そここに吊り下げられているというわけ”という事らしい。”<整然と整理されて>ではなく<渾然とごちゃごちゃに>詰め込まれていおり、”百科全書的な作品と謂われ、学問の分野を軽々と飛び越え、また、世界のさまざまな文化を呑み込み、消化している。文体も内容も異なるさまざまなエピソードの積み重ねによってできあがった作品”といった事になっているらしい。



この”出鱈目な配列”は、作品の<エントロピー>の針を最大に振らせようとする為であり、民族や国家や文化の枠組みなど全く無意味であると考えており、<エントロピー>という宇宙原理の手の中で、空間的にも、時間的にも非常に広い視野もって冷静に物事を見ているというピンチョン氏独特の姿勢にあるらしい。これらは、一時期の流行、時代の雰囲気に溺れることなく、できるだけ”普遍的な物語”を作りあげようとしている為であるとの事。


ピンチョン氏の作品は、絵画の世界での”巨大なコラージュ作品”の訳の解らなさや魅力を、小説で表されているように感じられる。